茶碗や漆器の再生をして何れくらいになるだろうか?
記憶をたどれば「漆」を始める原点になるかも知れないです。
ホントに手探りの試みがいつしか実験室状態になり、予算も知恵も乏しいながら親父と二人で自力で漆小屋を建前してた映像が蘇りますわ。
さて学ぶ基礎ともなった「金継ぎ」ですが京都の茶道の先生を始め地元のM先生、豊田市の高等学校のO先生、教育大のk先生、小牧のA先生たくさんの人の助けを頂きどんな状況でも投げずに今があります。
棄てられしまう沢山の茶碗を直し新しい景色が生まれまた「茶を飲む」。
なんとも粋ではありませんか。
普通なら要らないと判断してしまう考え方が今は見直されているのも現実ですがモノがない時代ならごく当たり前のことでした。
ただ壊れた、割れた、変化したモノを本当に愛せるか?は心の豊かさが必要です。
それはモノに限らず生き物や自然などすべてに関わる生命の儚さを受け入れられるか?ということかも知れないですね。
荒神堂/鈴木富喜